
★2002/07/23(火)★
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〜奈良時代の漂流者「伏見の翁」〜
前回、本能寺の変で戦った黒人兵士についてお話ししました。
今回も、日本という異国の地で、運命に翻弄された異国人についてのお話をいた
しましょう。なんとも不思議な話です。
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〜「伏見の丘」に住む不思議な老人〜
時は奈良時代、聖武天皇の頃である。
奈良の垂仁天皇陵の近くには小高い丘があり、「伏見の丘」と呼ばれていた。
どこから来たのだろうか、一人の老人がこの丘にやってきて、住みついた。
老人は三年間、頭を北にして、ずっと横たわったままでいたという。村人たちは
不思議がり、この老人に話し掛けたが、名前を聞いても、故郷を聞いても、一切
何も答えなかった。
そのうち、村人たちは「この老人は口がきけないのだ」と思うようになった。
そして、彼を「伏見の翁」と名付けたのである。
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さて、「伏見の翁」の話の途中だが、当時の社会状況を解説しよう。
老人が伏見の丘にやって来た時、奈良ではビッグプロジェクトが始動していた。
そう、「東大寺の大仏建立プロジェクト」である。
教科書では、ほんの数行しか説明されていない、このプロジェクトは現代なら、
必ずNHKの「プロジェクトX」に取り上げるほどの巨大プロジェクトだった。
全国の金銀銅は大仏建立のためにかき集められ、6年間で、のべ260万人が働く
ことで、ようやく大仏は完成したのである。
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〜悲惨な強制労働者たち〜
聖武天皇は大仏建立を公表した詔の中で、こう言っている。
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「天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者は朕なり」
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フランスの太陽王ルイ14世の「朕は国家なり」と並び賞されるこの言葉は、聖武
天皇の絶大なる権力を証明するものと言われるが、富を簒奪される側の一般人に
とっては、全くもって迷惑な話であった。日本史において、奈良時代と平安時代
ほど、一般庶民にとって、暗黒時代はなかったのである。
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その証拠に、平城京建設時の悲惨な強制労働を見てみよう。
全国から集められた国民は、建設現場に到着すると30〜60日の間、強制労働をさ
せられた。あまりの辛さに逃げる者も多かったが、逃亡者は捕まり次第、逃亡1日
につき10回、ムチで叩かれた。当然その後、現場に戻され、働かされる。
一番メチャクチャなのは、往復の旅費と食糧が国民の自腹だったことである。
ただでさえ、貧しい一般庶民である。この出費は非常に辛いものであった。
当然ながら、労働中は食糧が配給される。しかし、その内容は一日、玄米8合と塩
のみであった。しかも、雨天で仕事ができないと、食糧は半分に減らされた。
故に、雨が何日も続くと、もう悲惨である。労働者は空腹のあまりに、帰りのた
めに持参した食糧に手をつけることになる。そして、帰り道の途中で、食糧がな
くなり、飢え死にするのであった。
当時、奈良からの帰り道に餓死する者が、非常に多かったようだ。
続日本紀によると、このような詔が出ている。
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「強制労働の後、故郷へ帰る者が行き倒れて、餓死するケースが非常に多い。
その死骸は故郷へ送るか、もしくは名前だけでも故郷へ知らせよ。」
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上記は、平城京建設時の強制労働であるが、大仏建立の時も似たようなものであ
ったに違いない。後に橘奈良麻呂という貴族が反乱を起こすが、その理由が「東
大寺を造り人民を苦しめた」ためだと、続日本紀に書いてある。
しかも、聖武天皇は東大寺建立だけでなく、全国に国分寺、国分尼寺を建立し、
平城京から恭仁京や紫香楽宮への遷都も行っている。そのための労働力も、当然
ながら国民が提供することになる。
最悪なことに、遷都にともなって、大仏の建立地も途中で変更されている。
このような状況では、国民の苦労は極限まで達していただろう。
現在、仏教を信じた聖人と考えられがちな聖武天皇や光明皇后は、国民の苦労を
知っていたのであろうか? 私の目には愚かな帝王としか映らない。
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〜「伏見の翁」と「菩提僊那」〜
こうして長きに渡った、国民の莫大な犠牲の上に、奈良の大仏は完成した。
752年4月9日、東大寺大仏殿で、大仏完成を祝う大仏開眼の儀式が行われた。
今からちょうど、1250年前の話である。
会場には1万人の僧侶が並び、お経を唱え、日本の雅楽や、ベトナムや朝鮮の音楽
が演奏された。かつてない盛大な儀式であったと、続日本紀にはある。
そして、聖武上皇(既に天皇を退位して上皇になっていた)、光明皇太后、孝謙
天皇が見守る中、インド人のバラモン僧が大仏に眼を入れた。大仏開眼である。
その僧侶は姓を波羅遅(バラジ)、名を菩提僊那(ボダイセンナ)といった。
黒い墨で大仏に眼を入れた彼だが、彼自身の目は青かったそうである。
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菩提僊那は、736年に遣唐使の船に乗って、日本にやってきた。
当時、日本には行基(ぎょうき)というエライお坊さんがいたのだが、行基は
大阪(難波)の港まで、菩提僊那を迎えに行った。そして、行基は、菩提僊那を
自分の寺である菅原寺に連れて行き、歓迎会を行ったのである。
ようやく話が本題に戻る。
冒頭を思い出してもらいたいが、今回の主人公は「伏見の丘」に住む謎の老人、
「伏見の翁」である。そして、この菅原寺は「伏見の丘」の近所にあった。
宴会が始まると、菩提僊那は喜びのあまり、箸で叩いてリズムに乗って、舞を
舞いだした。恐らくインドの言葉で歌でも歌っていたのだろう。
菩提僊那の歌声は、寺の外まで流れ出た。
すると、その歌を聞きつけて、「伏見の翁」が飛び込んできたのである。
今まで口がきけないと思われていた「伏見の翁」はこう叫んだ。
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「時なるかな! 時なるかな! やっと叶った!」
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こうして、「伏見の翁」は、菩提僊那とともにインドの舞を舞ったという。
彼は恐らく、インドから漂流して日本にやってきた人物なのだろう。
言葉も習慣も異なる日本で、たった一人で生き抜く必要があった異邦人
・・・「伏見の翁」
どれだけ不安で、どれだけ望郷の念にとらわれていたのであろう?
菩提僊那の歌声を聞いて、どれだけ嬉しかったことだろう?
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それからしばらくして、彼はどこかへ消えてしまった。
その行き先は誰も知らない。
後に村人が行基に「伏見の翁」についてたずねると、行基はこう答えたと言う。
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「伏見の翁は、東大寺の守護神である。」
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